Peace wave ・ メイン

2006年05月05日

夢想的北京

 おそらく、現代の日本ではこれほど短期間のうちにこんなにも街のようすが変わってしまうことなどないのではないか。
 マイレージをためて頂戴したチケットで飛行機に乗り、再び北京に降り立ったのは2月10日。春節が終わり、明日は元肖節(ユエンシャオジエ)という、寒い日だった。
 8年前に短期留学生として青春のひとこまを過ごした、懐かしい北京語言文化大学。そのほとんど校内にあるともいえるこぎれいなホテルに宿を求めた。校内を歩き、きらきらしていたあの頃の思い出に浸りたいと思った。
黄砂とスモッグでかすんだ街と極端に乾燥した埃っぽい空気。さんざし飴の鮮やかな赤。立ちのぼる温かい湯気。人間の生きる営みを感じさせてくれる街。大好きな北京は何も変わらずに私を待っていてくれるはずだった。でも。

 オリンピックが開かれる2008年を前に、北京は急激にその姿を変えようとしていた。想像を超える巨大なホテルが林立する王府井だけでなく、郊外の大学や市民が暮らす団地も古いレンガ造りから、無機質なコンクリートやしっくいのハコに変わりつつあったのには少なからずがっかりした。懐かしの大学校内を歩いても当時の面影を感じることがず・・・。寮から校舎まで、図書館から食堂まで、歩き慣れたはずの道は・・。呆然として必死で記憶をたどる。
 もともと共産主義国の中国では、区画整理や団地整備の折に住民説明などしないし、整理のやり方も非常に豪快かつ大雑把だ。あっという間にひとつの町並みがなくなってしまうことなど以前もあった。それにしても。
 在学していた頃、学校から歩いて5分ほどのところに大きな自由市場があった。留学生が足繁く通ったそこでは、食べ物はもちろん、衣服や日用品、家具までなんだってそろった。混沌とした魅力的な場所だった。焼き栗を頬張りながら、どこまでも続く狭い路地をあてもなく探検するのが楽しくて仕方なかった。8年後の今、その場所にあるのは大きな新しいアパート群だ。かつての賑わいも、たくさんの人やものもぜんぶ、跡形もなく消えてしまった。
 高度成長を経験していない私は急激に変わりつつある街の姿になじめない。思い出がなくなっていく寂しさばかりを感じ、大きいだけのハコモノに美しい未来を見ることができない。旅人の無責任な感傷だとわかってはいるが、気持ちを整理できないまま帰国の途についた。
(中川 久美子)

投稿者 tsuka

2006AISCC通常総会報告

AISCC通常総会報告
(2006年4月23日 於:長野市南千歳公民館)

〈2005年度アジア子ども交流支援センター事業報告〉
昨年の4月に、アジア子ども交流支援センターを設立いたしましたが、この一年で多彩な活動を進めることができました。これらは、会員の皆様やご協力を頂きました多くの皆様のお蔭と感謝しております。ありがとうございました。

昨年の夏のミャンマーの子どもたちへの支援は、ミャンマー教育省の都合で、ヤンゴンのタケダ6番小学校の井戸掘りなどの公設学校への訪問支援は予定どおりに行きませんでした。教育省の考えは「大事なミャンマーの子どもたちに外国人を会わせる訳には行かない」ということでした。昨年は、予定を急きょ変更して、2つの僧院学校を訪問して来ました。今後の支援の仕方については検討していく必要があると思います。
中国には昨年の2月と10月に訪問しました。民主促進会北京市委員会を訪ね交流支援のあり方を協議してきました。現在の中国の経済発展はめざましいものがありますが、沿岸都市部と地方の農村部との経済の格差は、益々大きくなっており、国内矛盾が高まっています。また日本政府と中国政府の関係も悪い状態が続いています。戦後の日中関係で今が最も悪い状況になっているのではないでしょうか。このような中で、草の根の交流支援はとても重要と考えています。
昨年度1年間に協力をして頂いた学校は長野市を中心に15校にのぼります。多くの子どもたちや若者たちに報告を聞いて頂き、支援活動に参加をして頂きました。参加して頂いた皆さんは、支援の意義や文化の違いを学び、平和について、また「真の幸せとは何か」を考える機会になったことと思います。昨年は他団体からも、ご協力を頂きました。グローバル教育支援センター、須坂水の会、ぼろ織りの会、NAGANOケナフの会などからですが、大変ありがたいことです。また企業からも、協力の申し出が出始め、寄付金などでご支援を頂きました。
アジア子ども交流支援センターの活動に参加、協力して頂く方々のそれぞれの動機は、必ずしも同じではありません。勿論、スタート時点での動機は様々で良いと思います。しかし、交流支援を続けて行く内に自分は、何の為に活動しているのだろうかと疑問が沸いてきたり、支援国の家庭文化の豊かさに驚いたりしながら、「真の幸せとは」どういうことなのか、日本の子どもたちや将来は大丈夫だろうかと思いをめぐらせる人が出てきます。この傾向はとても良い現象だと思います。正に、交流支援活動は、自分の人生をどう生きるべきかを考え、自分自身を変革していく「自分おこし」の活動につながって行くのだと思います。
私たちの活動は楽しいことばかりではありませんが、今年もすでにいくつかの学校から取り組みを始めたいと連絡を頂いています。大変嬉しいことです。今年度も、日本とアジアの子どもたちが対等平等に付き合っていけるよう、その「橋渡し」の活動を発展させていきたいと思います。

〈活動の軌跡〉
◆2005年
2月21日~26日 中華人民共和国訪問 北京市 民主促進会と会見 1名
3月 9日 長野市吉田小学校3年3組、4年1組でミャンマー報告
3月27日 アジア子ども交流支援センター設立準備会(事務局)
4月10日 アジア子ども交流支援センター設立総会を開催 第1回理事会を開催(長野市ふれあい福祉センター)
5月 5日 機関紙「Peace wave」創刊号を発行
6月11日 第2回理事会を開催(長野市ふれあい福祉センター)
6月23日 長野市三輪小学校6年2組でミャンマー報告
7月 3日 第1回アジア料理教室・ミャンマー料理26名(長野市ふれあい福祉センター)
7月15日 長野市皐月高校3年生(環境科)でミャンマー報告
7月18日 ミャンマーへ送る文房具のパッキング:長野市東北中学校生が協力(事務局)
7月30日~8月7日 ミャンマー連邦訪問 僧院学校、教育省・大使館訪問 5名
8月27日 第3回理事会を開催(長野市ふれあい福祉センター)
8月26日 長野市皐月高校3年生(環境科)でミャンマー報告
9月 1日 須坂市東中学校全1年生にミャンマー報告
9月 3日 信濃教育会シンポジウムでパネラー参加
9月 5日 機関紙「Peace wave」第2号を発行
9月27日 長野市柳町中学校全2年生にミャンマー報告
10月1日 須坂市東中学校「東祭」でパネルディスカッション助言者として参加
10月5日~9日 中華人民共和国訪問 北京市 民主促進会と会見 2名
10月23日 第4回理事会を開催 於 長野市ふれあい福祉センター
10月26日 長野県中小企業家同友会「共育講座」でミャンマー・中国報告
11月 5日 機関紙「Peace wave」第3号を発行
11月13日 第2回アジア料理教室・韓国料理38名(長野市ふれあい福祉センター)
11月19日 1. まちづくり創造フォーラムでアピール(長野市もんぜんぷら座)2. 長野市まきば保育園のチャリティバザーに参加アピール
12月17日 忘年会 タイ料理(アロイ食堂)

◆2006年
1月22日 第5回理事会を開催(長野市ふれあい福祉センター)
2月 5日 機関紙「Peace wave」第4号を発行
2月7日 NPOアジア麻薬・貧困撲滅協会との意見交換(ながのメルパルク)
2月18日 第3回アジア料理教室・ネパール料理17名(長野市ふれあい福祉センター)
3月3日 JR東日本労組長野地本を訪問 情報交換 2名
3月18日 第6回理事会を開催(長野市ふれあい福祉センター)
3月25日 須坂市水の会総会でミャンマー・中国報告(すざかシルキーホール)

〈アジア子ども交流支援センター活動方針〉1. 交流支援活動
a.ミャンマー連邦の政情は依然として不安定です。一向に進まない民主化のプロセスに世界各国から不満が高まっています。このような情勢の中での支援活動は問題を多く抱えていますが、今年の夏も訪問を予定したいと思います。
b.中華人民共和国への訪問は5月13日~17日のJR東日本労組長野地本の訪中団に参加し支援内容の視察をさせて頂き、本年度から本格的な交流支援活動を始めます。できれば夏以降に訪問を予定したいと思います。
c. 各学校での活動および他団体との連携
a.長野市皐月高校、須坂市東中学校、長野市吉田小学校などからの支援要請に答えます。
b.ミャンマー支援をしている他団体と情報の交換のための組織づくりを目指します。(仮称、ミャンマー支援団体連絡協議会の設立)
c.アジア各国の文化を知る活動を行ないます。(料理教室を年3回以上は開催)
3. 広報および組織強化活動
a.各イベントに積極的に参加し、支援国の物産販売およびPR活動を行います。
b.HPや「Peace wave」などを活用しPRに努めます。(リーフレット・チラシも活用)
c.企業団体への呼びかけを強化します。会員拡大を行ないます。

〈2006年度役員〉
【理事】
青木正彦・浅川美歌・井上久美子・小池邦子・島田久美子・春原洋子・塚原康徳・松川常夫・山口幸枝・山田治三
【監事】
有賀八千夫・北村哲郎

投稿者 tsuka

2006年02月05日

ガールスカウトがミャンマー難民にピースパック

 (社)ガールスカウト日本連盟はUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)との共同事業として、10年間パキスタン国内のアフガン難民キャンプの子ども達に鉛筆やノートの文房具や日用品などを入れた「ピースパック・平和の小包」の配布を実施してきました。

 アフガニスタンのプロジェクトに続き、タイ西側の国境沿いにある9ヶ所のミャンマー難民キャンプの子ども達への支援を始めました。
 ミャンマー難民の大半は18歳以下の子ども達で、難民としてキャンプで登録されると、安全(タイ政府)や保護(UNHCR)NGOによる援助を得ることができますが、キャンプ地から300m以上はなれてはいけない、10年生(16歳)までしか教育を受けられないなどの制約もたくさんあるため、日本連盟では、難民の子ども達への支援活動を行なうことを決定しました。また、難民の子ども達との交流を行なう派遣団を今年3月に送ることも決めています。(プロジェクトは2005年9月~2008年3月まで予定)長野県内では、松本市の長野県ガールスカウト第8団が独自に7年前からミャンマーの子ども達との交流支援をしているほか、長野市の長野県第4団もアジア子ども交流支援センターと共に2002年から活動を行っています。
(傳田 早苗)

投稿者 tsuka

チャリティバザー チャレンジ体験

記まきば保育園(長野市)のプロジェクト参加報告

 私の親族が長野市松代の温泉団地で『まきば保育園』を運営している関係で、昨年のAISCCの発足以来ご協力をお願いして参りました。昨年夏のミャンマー訪問に先駆けて、7月に保育園の保護者の皆様約100世帯ほどに向けて文房具のご寄付をお願いするプリントを配布して頂きました。約2週間ほどで集まった文房具の数の内訳は以下の通りです。

鉛筆:128本 / ボールペン: 9本

ミャンマー訪問後にはご寄付頂いた文房具の数の報告と、ミャンマーの現地報告を青木代表に書いていただき、11月に保護者の皆様に配布して頂きました。保育士の皆さんも若い方が多い為、興味を持って頂いている先生もいらっしゃいますので、今後も継続して支援のご協力をお願いしていきたいと思います。

 また、昨年11月19日(土)に保育園の行事として行なわれた恒例のバザーにAISCCとして出展させていただきました。当日は大変冷え込む天候の中、青木代表、春原さんにご協力頂き、多くの保護者の皆様や園児の方々にAISCCの活動に興味を持って頂けたと思います。ミャンマーのビデオ上映も同時に行なっておりましたが、出展ブースとすこし離れたところに設置しなければならなかったため、なかなかそちらまで足を運んでいただくことが出来ませんでしたが、青木代表のお声掛けにより興味を持っていただいた方々も多かったと思います。
 当日はAISCCのメンバーの皆様から出展していただいたミャンマーグッズを販売し、募金箱も設置しました。また、保育園のご協力により、過去のバザーで販売することのなかった骨董品や雑貨を無償でご提供頂き、ミャンマーグッズをご購入頂いた方や寄付をして頂いた方には、サービスとしてそれらの骨董品の中からどれでも好きなものを1点お持ち帰りいただける!という特典をつけたこともあってか、ミャンマーグッズの売れ行きもよく、全て完売することができました!
特に主婦の方々にはシャンバックが非常に好評で、私の母や祖母も購入し、『友達も欲しがっていたのでもっと欲しい!』と後日リクエストされるほどでした。また、多くの方に寄付をしていただき、グッズの売上と寄付で11,395円になりました。

グッズ販売の傍らには会で用意したチラシやパンフレットも全て配ることができ、大変多くの方に興味を持って頂けたのではないかと思います。
 また、青木代表が展示用に持って来て頂いた非売品のミャンマーの漆器などにも興味を持つお客様が多く、『これは売り物じゃないの?』と残念がる方も多くいらしたので、今後はそういったミャンマー雑貨類も大いにミャンマーに興味を持っていただけるきっかけになるものであると実感しましたし、またそういったものはバザーなどで売れる商品になると感じました。私個人的には、当日は寒かったのでミャンマーのコーヒーなどもあれば結構売れたのではないかなとも考えました。

バザーやイベントは1度に多くの方に興味を持っていただける機会であると同時に、寄付やグッズの売上で運営費や支援金を増やす目的でも効果的な方法だと今回改めて感じました。また、今後も機会があれば別のイベントでも積極的に参加するべきだと思いましたし、保育園のバザーに関しては今年も機会があれば保育園のご協力を頂き、昨年の体験を活かしてより実りの多い活動にできればいいなと思います。
(浅川 美歌)

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ネパール訪問記  ~10年目のネパール~

グローバル教育支援センターのメンバーとして山田治三さんが昨年11月にネパールを訪問いたしました。
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 待ちに待ったネパール訪問は11月1日から11月6日の日程となりました。今までは早朝の長野出発、目が覚めないうちのフライト、もうバンコクか、ということが多かったのですが、今回は第1日目、関空のホテル、帰国の6日は明るいうちの自宅到着の日程でした。
 早いもので、紆余曲折はありましたが支援者との約束の教育支援が10年になりました。ネパール訪問はここ数年、訪問計画を立てるのですが、ネパール国の政情不安などで子供たちへの訪問はとぎれとぎれとなり、私は2年ほどご無沙汰してしまいました。子供たちは大きくなっているだろうか、カトマンドゥの町はどうだろうかと思いがつのり、わくわくの出発でした。カトマンドゥへは夜の到着でしたので、のんびりしていましたが、着くやいなや慌ただしく翌日の予定確認、連絡等で12時を過ぎてしまいました。今回初めて同行する支援者の要望もあり宿泊先は「アンナプルナホテル」をとりました。

 訪問期間中、ちょうどネパールでは「ティハール」といわれる女神ラクシユミーを家に迎え、富と反映を祈る光の祭りとして華やかな収穫祭が行われていました。この祭りでは夜に親戚が集まり花や果物を捧げ、長寿や無事を祈ります。予定ではバスネットさんの自宅訪問があります。バスネットさんは以前健康診断など医療について支援をした折りに、ごやっかいになり5年前にもご自宅を訪問させていただきました。その時は案内された2階は薄暗く、あいにくその日、バスネット先生の学校で学生デモがありバネットさんの自宅で長時間お待ちしたことを記憶しています。
 夕方、タクシーでバスネット宅へ。家々の入口には独特なキャンドルが幻想的でした。2階へ上がって、びっくりしてしまいました。部屋は5年前の面影はなく、模様替えがされ、中は整然としており、果物が何種類も供えてありました。料理も鶏肉、豚肉、を使ったお祭り独特の料理が盛り沢山あり、食べきれませんでした。食事の順番があるようで、我々の食事中に子供たちが出たり入ったり日本の子供と同じです。以前のように医療支援が出来れば良いなあなどと、話が弾みましたが、家族団らんの祭りの日、長居は無用と名残惜しみながらお別れをしました。
 「ティハール」の日だと言うことからすると、カガチ村からのチヤクラマン先生、シュデニ村のシタラン・ギミレ先生が何キロメートルと遠い山からホテルまでおいでいただいたこと、支援している子供たちの家庭訪問、C,M,Sのレグミ校長はじめ関係者の面談、民族舞踊を交えての歓迎会、悪いことをしてしまったと思います。楽しみの祭りの日なのにその準備に追われてしまったことは悔やまれました。
 マンジュ、アラテイ、など子供たちと再会し、面談をすると、健康で健やかに育っている子供、我々の支援は小さいかもしれないがネパールを担う立派な若者に育っていることを実感しました。短期間の訪問でしたが実りが多い今回でした。来年の訪問を約束しネパールを後にしました。
(山田 治三)

投稿者 tsuka

2005年11月05日

中華人民共和国訪問報告

 成田空港から北京空港まで2134km。今年2月に続き10月5日~9日の間中国を訪問してきました。今回も訪問したのは中国民主促進会北京市委員会で松川理事と共にお話を伺ってきました。 訪問したのは中国民主促進会北京市委員会、民主促進会とは中国政府が認めている8つ政治団体の1つで、日本の国会で言えば野党にあたる団体と考えて頂ければと思います。大学や高校の優秀な先生方によって組織されています。中国の小中学校の先生方の80%は高卒の学歴で、特に田舎の先生ほどこの傾向が大きいとお聞きました。民主促進会の主な任務は政府や行政などに教育に関する提言を行っている他、経済的に貧しい地区に出かけ、先生方のレベルアップや子供たちへの支援活動を行っています。子供たちへの支援は、ここ数年は香港の企業や教師集団と協力しておこなうことが多くなっているようです。

 中国の学校制度は小学校6年、中学校3年、高校3年、大学4年であり、小中学校は義務教育で日本と同じです。新学期は8月か9月から始まります。学校は国の教育部、省の教育庁、各市の教育局で管理されています。教員資格は正規と臨時の2種類があり、給料は地区の行政から支給され、地区の経済力で変わる為、都市部に勤務を望む先生が多いといいます。経済力が弱く教育支援を必要としている地域は、東北エリア、西北エリア、西南チベットエリアで、北京市委員会は陝西省、貴州省、雲南省の3地区に力を入れて支援をしています。現地の学校の状況ですが、先生が足りておらず、山間地域では父兄が資金を出し合い先生を確保している状況で、校舎は傷みが酷くぼろぼろのところが多く、あればまだましで、洞窟や青空で授業を行っている所もあるようです。机や椅子も不足していて、図書館もなく、本も置いてない状況だそうです。国も10年前から格差是正のプロジェクトを組んで取り組みを始めていますが、徐々に改善が見られるもののまだまだ時間が必要と予測されています。また、これらの地域の子供たちの20%は就学していません。
 障害者教育は弱智、聾、盲学校などは各地に設置されており専門の教育がされているようですが、多動症の子供たちには特別な教室は設けておらず他の子供たちと一緒に学ばせています。障害者の就職は国が責任を持って斡旋しており、給料は健常者のおよそ半分だという事です。
 今後の交流支援は北京市内と支援地域内での交流は民主促進会北京市委員会が仲に入るので問題なくできるそうで、まず現状を視察してから「絵の交換や文通などをしていけるでしょう。また、双方の教師の交流も良いものにしていきましょう」とアドバイスを頂きました。
 日本人の中国観光客はここ10年間平均で年間44万人~50万人ですが春先の事件で日本からの観光客は60%も減少しているそうです。これまでの両国の関係は長い歴史の中で友好関係も築かれてきましたが、旧日本軍の侵略で両国人民にとって不幸な時代もありました。今回、日中戦争のきっかけとなった1937年7月7日の盧溝橋事件の現場を訪ね、中国人民抗日戦争記念館を見学して来ました。館内はとても広く、旧日本軍の侵略と中国人民の戦いの歴史が展示されていました。近年の中国人の愛国心教育の場にもなっているようですが、旧日本軍の残虐振りに目を覆いたくなる展示もあり、人が人を殺す戦争を再びしてはならないと強く感じました。
 今後の交流支援活動については政治的問題も多く存在しますが、少しずつ始めていければと思います。先日、小泉首相が靖国神社を参拝しました。賛否両論がありますが、私たちの気持ちや活動に水をさす行為であると思います。「強大な地域パワーの登場を防ぎたい」とするアメリカの思惑が日中間のもめごとを歓迎しているのではないかと考えてしまいます。いずれにせよアジア各国との友好関係を築いていくことがアジアの平和安定に貢献することに繁がります。出来ることから中国の子どもたちとの交流支援活動を始めていければと考えています。
(write青木 正彦)

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学校に行けないネパールの子どもたち

私の主人が信州大学に留学していますので私も3年前に来日しました。日本に来てからネパールの学校こと、子供たちとネパール文化などを知らせるために、いくつかの学校を訪問し交流をして来ました。また、機会があるごとにいろいろな所でも交流を重ねて来ました。今は長男アーナブの子育て中です。
私の国ネパールは日本とまったく違ってこのような豊かな国ではありません。小さくて貧しい国です。特に村の人々はお金がなくて生活が苦しいです。自分の畑がある人は少しだけ生活はしやすいけれど、自分の畑のない人はいくら働いてもお金は足りません。自分の子を学校に行かせない家族は大勢います。

ネパールでは10人のうち2人は学校に行っていません。学校へ行かない主な理由はお金が無いからです。学校は中学校(ネパールでは7クラス)まで学費はただです。教科書は出ますけれど試験費がかかります。試験費や制服、ノートなど買うお金が無い人は学校へは行くことが出来ないのです。もう一つの原因は、子供たちが大勢いて(1家族当りの子どもの数は全国平均で4.7人)皆を学校へ行かせる事のできる人は少ないのです。男の子だけ学校へ行かして女の子には家事を手伝わせたり、小さい子の面度をみさせたりしています。そうしないと両親は他の仕事ができないです。とても貧しい家の子どもは金持ちの家に手伝いに行かせたりします。貧しい家の子は学校へ行くことは夢のまた夢です。それから学校そのものが不足していることももっと重要な原因です。町には学校はありますが、村では学校は足りません。地元に小中学校があってもそれ以上の勉強は遠い所にある高校に行くことになります。だから小・中学校で勉強を辞める子がいっぱいいます。遠いところに行って勉強するにはお金と険しい道のりをどうやって学校まで行くかなどの問題があります。ですからどうしても勉強させたいという家族は少ないです。でもどうしても勉強をさせたい家族はとても頑張って子供を学校へ行かせます。それ以外に勉強が嫌いで家の仕事ばかりしていて学校へ行かない子もいます。
ネパールでよく見かけることは、子どもが町でゴミを集めている。停留場で小さい商売している。重労働の仕事している子どもたちです。この子たちは親がいないか、親が不自由で働けないので代わりに町に来た子供たちです。働かないと食べられないのでこのような仕事しています。勉強したくてもこの子たちには学校へ行くチャンスは与えられません。この子達を助けるいくつかの支援センターがありますがとても足りていません。私も将来はこのような子どもたちを助ける支援センターを開きたいとおもっています。
ネパールには日本を始め幾つかの国からの支援が入っています。しかし、ほとんどの支援は町中心です。わざわざ村に行って支援する団体はとても少ないです。どうして町中心の支援が多いかと言うと、支援をしたくても村への道はとても険しいので行くことが簡単ではありません。歩いて行くのも大変だし、送った文房具なども届くかどうか分からないのです。それに、最近は村方ではマオイスト(反政府団体)と政府の戦争が起こっているので支援する人の安全が心配な状態です。国内戦争は町より村の方が激しいです。
日本の皆様のご支援をもっと頂けるなら、この子供たちの人生は変わります。出来るだけ支援の輪を広げて頂き、この子たちを私たちと一緒に助けて頂きたいと思います。
(write バラール・マンジュ)

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2005年09月05日

ミャンマーへの思い

Myanmar project 2005 report-1 
 ミャンマーへいけるなんて夢にも思いませんでした。義父がビルマ、マンダレー戦争での体験談をよく話してくれました。激戦地であったことはもとより、高温、蚊、病気、食糧不足などで生き残ってきたのが不思議だといっていました。多くの戦友を失くしており思い出のマンダレーへ1度でいいから行きたいと、言っていた折り、タイ旅行1週間の券2枚が手に入りました。
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 義父にお前一緒に行ってくれないかと誘われ、ビルマの近くなら行きましょうと、タイへ連れていってもらったのが初めての海外旅行でした。その時はビルマからミャンマーへの国名変更など政情不安のため、ミャンマーへは入国が出来なかったことを記憶しています。バンコクまでの旅でしたが義父は大いに喜びました。その義父も84歳で他界しマンダレーの記憶も薄れた頃、グローバル教育支援センターにミャンマープロジェクトが出来、教育支援が始まりました。
 2005年7月末の支援参加で5回ミャンマーへ行くことになります。支援に行くたび多くを感じるのですが、ヤンゴンへ着くと町並みがきれいになっているように感じます。またゴミも少なくなっています。写真を撮る機会が多いのですが、この頃カメラを向けると拒否する人が出てきました。大どおり、裏どおり、路地、いたるところがマーケットでありレストランであったりします。あの陽気さは何処から出てきているのか不思議でなりません。それに子どもたちの澄んだ目の輝きです。また子どもの物売りの少ないことです。軍事政権下の人々とは思われません。
 僧院学校訪問が多くなりますが、この子らを見ていると自分の子どもの頃が懐かしく思い出せます。衛生状況、教育環境、食料状況全く私の子どもの頃と同じです。日本の人たちの善意の学用品、お金、誠意をこの子らに少しでも役立っていただければ、またマンダレーを始めとする戦争で多くのビルマ(ミャンマー)の国民に迷惑をかけています。少しでも償うことが出来ればと毎年参加させてもらっています。義父も「治三、ありがとう」と喜んでいてくれると思います。
(writing 山田 治三)

投稿者 tsuka

ほんのちょっと前まで(?)アジアで

 どーも初めまして。私、すがぬまは今でこそ長野県人ですが、この10年間のうち、6年間はアジアで国際協力に携ってきました。
で、今までの活動を・・・というお題目で何か原稿を・・・と言われたのですが、まずはそこに行き着くまでの話から先にしたいと思います。
 あれはまだバカな酔っ払い(これは今でもそうですが)の学生のとき、少しは本でも読まなきゃいかんな・・・と思って、何気なく買った本の中に「肉を1kg作るのに、穀物20kgを必要とし、その分を貧しい人にまわせば、飢餓がなくなる」という一文を読み、「あれ?何でこんな簡単なことに気付かなかったんだろう。先進国は途上国を踏み台にして成り立っているんだ」と感じ、それがアジアに目を向ける一歩でした。
しかし、そんなこんなしているうちに就職してしまったのですが、このときの想いがあって、10年前に前の会社を休職して、青年海外協力隊でバングラディシュに行きました。

 バングラでは組合を通して、村の開発を行う・・・とけっこう漠然とした職種だったのですが、主に識字教育をしていました。識字教育とは字の読み書きができない人たちに対して、文字を教えるというものです。よく専門家が書く本には「字が読めないと条件の悪い契約書に印を押してしまう」とか「農薬のラベルが貼ってあっても、それが読めないので、子どもにそれを飲ませてしまう」などの理由で識字教育の必要性が説かれていましたが、私はそんなもんでなく、字を読み書きできることの喜びとかではないのかな・・・と思います。これは多分、今の日本人には分かりにくいことかもしれませんが、実際、村のおばちゃんの「遠くに出稼ぎに行っている旦那に手紙でやり取りできて、あたしゃ、嬉しいよ」という言葉を聞いて、バングラに来て、この仕事をして良かった・・・と感動してしまいました。
 と、協力隊は2年の任期でしたが、この業界が面白かったために、今度は前の会社を辞めて、NGOに入りラオスに行きました。
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 当初はラオスには図書が少ないので、学校に本を配布する・・・という極めて、私にとってはつまらん仕事でしたが、これとは別に首都のヴィエンチャンからおんぼろバスで20時間以上かかるセコン県というところで、少数民族の民話を収集し、それを紙芝居にして、小学校に配布するというものがあって、それにのめり込みました。ここは首都の普通のラオ人でも行きたがらないような電気のない貧しい地域なのですが、滅多に見られない水牛の生贄のような少数民族の文化とかも見て、楽しかったです。
 また、ただ単に紙芝居を配布しただけでなく、学校の先生方が自ら紙芝居を作るようにしてゆくように努め、数人でしたけど、面白い紙芝居を作った先生方に出会え、セコン県で仕事して良かった・・・とこれまた感動してしまいました。
 今は愛娘もいることで、もう無謀なこと(?)もできんな・・・と思いますが、それでもアジアとは繋がりを持ちたいと思いますので、これからもよろしくお願いします。
(writing 菅沼 裕行)

投稿者 tsuka

ミャンマー訪問報告(7月30日~8月7日)

Myanmar project 2005 report-2
 恒例の夏のミャンマー訪問は長野市から3名、松本市、駒ヶ根市からそれぞれ1名の団で、7月30日から8月7日まで訪問してきました。今回は残念ながら予定をいていた公設学校3校への訪問は教育省の許可が下りず実現できませんでした。理由は爆弾騒ぎなどのある中で、大切な子どもたちに外国人を合わせる訳にはいかないとする軍部の意向があったからだそうですが、教育省で会見したウ・ エィ ・ミィン(U Aye Myint)さんは「次回は許可できるでしょう」と約束をしてくれました。
 訪問できた僧院学校の報告を致します。どちらの学校の子どもたちも大歓迎してくれました。
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 ニャウンドウパラヒタ僧院学校(児童134名、教師6名)は今年から中学1年生の教室が増設されました。退職された男性教師の代わりを含め2人の女性教師が着任していました。今回の寄付は文房具をはじめ日本の子どもたちから送られた布絵や絵画などの他、長野市の裂織の会制作のシャンバック26個などを送ることができ大変喜ばれました。 キャンギン僧院学校(児童115名、教師4名)はこれまでグローバル教育支援センター時代にもなんども訪問した学校です。これまでに机の寄贈や敷地内の整備も行ってきました。今回訪問してみると、新たに屋根付の渡り廊下が造られており、激しく降る雨のなかでも濡れることなく教室に移動することができるようになっていました。文房具のほか布絵などを寄贈しました。

【ご協力頂いただいた学校団体】
長野市朝陽・吉田・三輪小学校、信濃町野尻湖小学校、長野市信大附属長野・東北中学校、ガールスカウト長野県第4団、広島県南方小学校、高知県伊野小学校、グローバル教育支援センター、裂織の会、NAGANOケナフの会
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 私たちと同時期にミャンマーを視察していたWFP(世界食糧計画)のジェイムス・モリス事務局長が8月5日、ミャンマー視察を終えバンコクで記者会見を行い「ミャンマーの子供たちの100人の内40人の栄養が足りていない。地方の子どもたちは80㌫が栄養不足だ」と語り、さらに、この状況が続くと1.学校への就学が続けられない。2.体力が落ちており病気にかかり安い。3.子供たちの死亡率が高くなる。非常に深刻な状況だと強く警告しています。
 今回、叶わなかった公設学校への訪問はミャンマー教育省と連絡を取りながら、なるべく早い時期に実現させたいと考えています。首都ヤンゴンで比較的貧しい人々が暮らすタケダ地区では34番小学校の他に10番小学校にも井戸がないことが分かりました。このようにミャンマーの子供たちは貧しく不足している物が沢山あります。しかし、仏教国で礼節を大切にする国情があります。かつての日本も礼節を大切にする国でした。ミャンマーの子どもたちが尊敬しているものは、お釈迦様、お釈迦様の教え、お坊さん、親、先生です。このことからも分かるように、家庭文化はとても高く羨ましいほどです。それに比べ日本の子供たちはミャンマーの子どもたちと違いお金や物が豊富でも幸せだとは思っていない。夢がなく将来にも不安を持ちながら生きている。とても心配なことだと思います。この責任は子供たちにあるのではなく私たち大人や社会にあると考えます。今回も「真の幸せ」とは何かを考えさせられる訪問になりました。子どもたちとの交流を通じて自分の人生を見直すこと、生きるということは回りの人々との関わりの中で生かされていること、それを実感できました。「命を大切にすること」「ひとを思いやる心を大切に生きていくこと」が今の日本には必要ではないかと強く感じました。
 最後に今回の支援にご協力を頂きました皆さん、ありがとうございました。
(writing 青木 正彦)

投稿者 tsuka

マレーシアの子ども事情

 私は高知ケナフ普及会の宮地 亀好です。2002年にはミャンマーにご一緒させて戴き、今でも、その時の感動が残っています。
 今回、急遽、マレーシアで開催されるケナフセミナーに参加する事になり4泊5日という短期間でセミナー・ケナフボード工場・栽培地・研究所を廻ってきました。
 マレーシアは国土の面積は日本の90%で人口は約2800万人13州からなり、国教はイスラム教である。
 国民の所得は東南アジアではシンガポール、ブルネイに次いで3番目に高く、約4500ドル(約48万)である。
 スズは世界一の生産国であり、海底油田、木材(まだ国土の70%が原生の熱帯雨林)電気製品や木材加工品、それにパーム椰子やゴムの大きなプランテーションもあり、発展している国である。
 クアラルンプールの交通渋滞緩和・公官庁の立て替えや発展途上国の追い上げなどから空港近くに、新都市移転計画・IT振興地区をもうけて、積極的に投資している。
 学校は田舎まで新しい建物が建設され、小学校は20人学級、中等学校は15人学級が定着しています。

 IT産業振興には、小学校から取り組み、マルチメジア・スーパー・コリドー計画も進められているし、新都市移転計画も計画の半分の年数でほぼ70%完成し、国会や官公庁の移転は終了し、安価で快適な住宅も次々と建設されていました。
 空港は黒川紀章さんの設計で東洋一と言われるくらい立派で、クアラルンプールまでは約75kmも離れていますが、ノンストップの特急列車28分で結ばれています。
 人種はマレー系62.3%中国系26.7%インド系7.6%であるが、教育に於いてはブリプトラ 政策によってマレー系の国民が優遇されています。
 子供の数は一家族平均は4人と多く、私が聞いた家族はほとんど4人以上でした。
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 学校はプレスクールと呼ばれる4才からの就学前教育からスタートし、以降、小学校6年、下級中学校3年、高等中学校2年、大学予備課程2年、大学3年(医学部は5年)のいわゆる「6-3-2-2-3制」から成っている。
 就学率は1995年の数字で小学校96.7%、下級中学校82.4%、上級中学校55.8%大学予備課程23.2%、大学3.7%と成っていました。今では小学校への就学率はほぼ100%近いと思われます。教員数は生徒に対して多く、全校を通じて教員1人当たり生徒15名以下と充実していた。
 中等・大学は技術系の専門学校も多く、大学の一部は大手企業が経営し、有用な人材養成もしていました。
 教育政策の基本に民族間の貧富格差を是正し、社会構造の再編を促す事に置いており、小学校6年で試験を行い、マレー系のみの児童を全体(約20万人)の1.2%に当たる約24、000人が全寮制の英才教育を受け、狭い大学に進学している。
 書店などは子どもの教材も多く、特に算数の問題には決められた答えを書くだけでなく、自己発想力を養う内容が多く見られました。
また、自己の意見を大勢の前ではっきり伝えるという内容の授業もされているとの事であった。
 マレーシアは車社会、ほとんど横断歩道はなく、危ないし、ガソリンは自国で生産でき、かつ税金もかからないため、(1リットルが40円と安く)都会の児童はほとんど、送迎は父兄が車で、田舎では自転車通学で有った。
 小・中学校は義務教育では無いが、高学歴は高所得に結びつくため、親は積極的に学校に行かしている。田舎の学校の話では小学校でも1人当たり週1リンギット(約29円)が必要とのことで、子どもの多い家庭は負担が多いとの事であった。(ちなみに先生の初任給は約8、000リンギット・・約23,200円)
 高等中学校の就学率が低いのは、家庭を助けるために就職する事によると思われます。その時男子生徒が早くから、仕事に就くため、大学進学率などは女性が65%以上を占めている。
 私が訪問したスハン村はタイ国境からの集団移住で出来た村で1所帯2ヘクタールを国が無償で与え、100所帯が稲作を営んでいました。稲作は1年に雨期の1回しか蒔けないため、裏作にケナフの栽培をし、近くのクアンタンミエコ松下のボード工場に販売するために試験栽培をしていました。
 この部落にも、立派な小学校が建てられ、朝8時から午後13時までの授業に全員が登校していました。
 また、就学前から国の教えとしての「道徳教育」が国の連帯感・自己の自己規律の基本にあり、日本は同じようにする事は出来ないものの、自己規律を高める事や団体生活を営む時の協調性などを高める教育について、学ぶべき点が多くあるように思われました。
 子ども達の教育・福祉の向上は地域の経済基盤の充実が不可欠である。今回、訪問したマレーシア・スハン村の振興には、その地域に合ったケナフの栽培技術の確立が不可欠である。環境保全、農業と工業の連携、循環型社会の構築などこの部落だけでも200ヘクタールあるケナフ栽培は。地域振興モデル地区としてもぜひ成功して欲しいと思っています。幸い、アジア子ども交流支援センターの会員はケナフにも興味のある方が多いので、他の国に行くときにも、この村を訪問して文化交流が出来ればと思う旅でした。
6月9日記(writing 宮地 亀好)

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中国訪問記

今回の中国訪問は、JICAが主催する教師海外研修参加によるものでした。JICAは、海外青年協力隊やシニアボランティアの派遣を通して、国際協力を実施している独立行政法人です。ですから、出発前の事前研修時には、国際協力案件のPR事業ではないかという穿った見方をしていたいました。しかし、実際に訪問し、現地で働く協力隊員、専門家(各種技術者)、そして、現地の人々(学生さんたち)との出会いを通して、改めて「援助」や「支援」をすることとは何かということを考えさせられました。それは、 物的支援や技術移転だけでない、人材育成、次世代につながる支援を行うということ、将来的に経済や政治状況に左右されない友好関係を築くには自分に何ができるのか。そんなことを漠然と考えました。

 内蒙古大学では、日本語科の学生さんたちによるスピーチと、参加教員による日本の学校紹介を行いました。中国の大学入試は、共通試験の得点により大学が決まりますので、内蒙古大学の学生も中国全土から集まっています。それでも蒙古族の学生が多いので、彼らは、共通語(北京語)とモンゴル語の二つの言葉のハンディを乗り越えなければなりません。その上で、日本語を身につけ、自分の夢の夢に向かって勉学に励んでいるのです。彼らの生活は、一日のほとんどを学習に費やし、文系も理系も関係なくアルバイトをする間もなく学ぶことに力を入れています。なるほど、日本語の上達も早いわけです。
このような学生さんたちは国内では、比較的恵まれた存在と言えますが、とても慎ましやかな暮らしでした。3元(1元=14円)のお昼を学食ですませ、4人部屋の寮生活を送っていました。
 お昼の時には、彼らと歴史問題や反日デモについて話すことができました。ある学生さんは、「これからの両国のことを考えるために、お互いの否は認めなくてはならない、そのために、日本語が役立てたら」という話をされていました。
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 現在の中国には、日本が歩んできた女工哀史の世界から・高度経済成長・バブル期に至まですべてが同時に進行しています。その善し悪しを述べることは私にはできませんが、貧富の差が顕著になってきているのも事実です。教育に限っていえば、経済上の問題から進学をあきらめざるおえない状況も生まれています。政府は、多民族融合、地方の底上げと優秀な人材発掘のため様々な施策をとっていますが、国内すべてに同じ教育条件が整っているわけではありません。また、政府自体が、中国国内の最貧地について公開しないという難しさもあります。
私たちがこれから、どんな支援や友好関係を築いてゆくか、さらなる情報収集と、見通しが必要になると思います。
(writing 湯本 英晴)

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2005年05月05日

アジア子ども交流支援センター(AISCC)設立にあたって

 2001年8月にNAGANOケナフの会の「ケナフ生態系調査団」がミャンマー連邦を訪問しました。
その際、調査に入った村の学校関係者から「子供たちは外国人を見たことがないので学校を訪問し顔を見せて欲しい」との要請を受け訪問を行いました。
 学校では、子どもたちが元気に学んでいましたが、紙は貴重品ということでノートではなく石版を使って授業が行われていました。また校舎の状態も悪く修繕が必要と感じられました。

 このような厳しい教育環境の中にもかかわらず、ここで学ぶ子どもたちの瞳はとても輝いており感動させられました。もっと子どもたちと交流をしたい、また、私たちができることで教育環境の改善のお手伝いはできないものかとの思いを持ち、支援活動を始めることにしました。
 2002年からはグローバル教育支援センターのミャンマープロジェクトとして本格的な活動に入り、その後も多くの皆様のご協力を頂きながら進めて参りました。
 特に長野市内の小中学校ではプロジェクトへの理解が進み、使われていない自分たちの文房具の提供や日本の文化を紹介する布絵などを描きミャンマーに送る運動が広がってきています。この輪を更に広げていく為に、新たにアジア子ども交流支援センターを設立し活動していくことになりました。
 これからもこの運動は一方的な支援ではなく、子どもたちと国境を越え、双方が共に学び合い、助け合っていくという精神で活動を発展させていきたいと考えています。
 またこの活動を通じ私たち自身も、それぞれが新しい発見や新しい体験の中で、一人ひとりが成長していけるよう実りある活動を目指していきたいと思います。
 アジア子ども交流支援センターはまだ小さな種です。しかし、着実に活動という根を張り、年輪を重ね、私たちメンバーと支援してくださる多くの皆様の力で、大樹に育てて行きたいと考えています。
(代表 青木 正彦)

投稿者 tsuka

AISCC組織概要と2005年活動計画

>> 活動計画立案にあたって =交流支援という考え方=
 おなかをすかせて倒れそうな人がいます。この人にパンを差し上げる。「困っている時はお互いさま」です。被災地などへのこのような支援の考え方は、“人”としてとても大切なことでしょう。
 ただし国境を超えて、構造的な貧困に陥っている社会に対し、このような支援ですべてを解決することができません。パンは翌日にはまた足りなくなり、毎日毎日パンを支援し続けることは困難だからです。
 そこでこのような場合、パン工場や小麦を作る技術やトラクターを支援します。ところが歴史はこのような支援さえも充分ではないことを実証しています。貧困は人間自身の差別や争いが引き起こす場合が極めて多いからです。
 そこで私たちは、次の時代をになう子ども達の教育現場への支援に加え、子ども達どうしの国境を越えたコミュニケーションを支援します。そもそも先進国の子ども達の方が必ず幸せとは限りません。様々な国の子ども達が交流の中で認め合い、助け合い、彼ら自身が作った未来が素晴らしいものであることを願いたいと思います。
 このような考え方がアジア子ども交流支援センターのベースとなっています。よって執行部は後述の通り大人で占められていますが、考え方の中心には子ども達がおり、活動計画もその理念に沿って立案されています。

>> 2005年活動計画

ミャンマー支援活動
ミャンマーにおける過去4年間の交流支援活動の経験を活かし、更に発展させる。特にミャンマーの子どもたちの教育環境改善の課題であるトイレの設置と飲料水(井戸掘り)の確保を進める。
1)現地訪問による活動 (7月~8月上旬に実施する予定)
【 内 容 】
■文房具の配布
タケダ区6番小学校(教師22名・児童615名)
タケダ区34番小学校(教師7名・児童132名)
オーファニック僧院学校(教師7名・児童100名)
※現時点では上記3校が計画されていますが、支援校は増える予定です。

■井戸掘り
タケダ区34番小学校

■衛生関連支援
ミャンマー歯科医師会と共同で、歯科衛生および健康栄養管理の支援(啓蒙チラシを制作、文房具とともに配布)

■課外教育事業
ニャンドゥパラヒタ僧院学校の子どもたちをヤンゴン環状線列車に乗車体験してもらう。

■交流支援
日本の子ども達からのメッセージ(布絵など)を伝えるなど、子ども達同士の交流を促進する。
ミャンマーからも、子どもの絵などの提供をうけ日本の子ども達に届ける。
※中国・ネパールに対する支援活動も調査を進め、準備が整い次第活動を開始します。

2)国内における活動日程
5月 ・日本国内での募金、文房具の寄付等の支援呼びかけ開始
   ・小中学校への交流活動呼びかけ開始

7月末~8月上旬 2005年スタディーツアーの実施と支援活動
   ・帰国後報告会の開催。
   ・報告書および記録ビデオの制作
9月・2月 支援国の文化紹介などのイベント・料理、民芸品、ビデオ報告会 etc

通年 
 ・日本国内の子どもたち(主に小中学校)へ活動の紹介と交流(支援)の呼びかけ
 ・募金や文房具などの支援呼びかけ
 ・機関紙「ピース ウェーブ」の発行(5.8.11.2月)

>> 組織概要
アジア子ども交流支援センターは正会員と賛助会員で構成され、役員(理事と監事)によって運営されています。

■2005年役員
〔代表理事〕
青木 正彦(長野市)
〔理事〕
浅川 美歌(長野市) / 井上久美子(長野市) / 小池 邦子(須坂市)
春原 洋子(中野市) / 関  淑乃(長野市)  / 塚原 康徳(長野市)
伝田 早苗(長野市) / 松川 常夫(駒ヶ根市) / 山口 幸枝(須坂市)
〔監事〕
有賀八千夫(伊那市) / 北村 哲郎(長野市)

■会員
1.正会員 
 a.個人(年会費3,000円) b.企業・団体(年会費10,000円)
2.賛助会員
 a.個人(年会費10,000円) b.企業・団体(年会費30,000円)
※ただいま会員を募集しています。

投稿者 tsuka

ミャンマーの生活と教育事情

 2004年10月から2005年1月にかけての3ヶ月間ヤンゴンに滞在しましたので、その間に感じた街や人々の様子について触れてゆきたいと思います。
 ヤンゴンでは、ここ数年スーパーマーケットやショッピングセンターが増え、どんどん都市化しているように感じます。インターネットカフェやモダンなレストラン、カフェが街のあちこちに見られるようになりました。少しずつ道路の整備もなされ、ごみを集め清掃するヤンゴン市の制服を着た職員の姿をダウンタウンの中であれば、一日中目にします。ヤンゴンは、華やかで現代的な首都としての顔を急速に整えようとしているかのようです。若者の間では髪を染める事が流行り、民族衣装であるロンジーやシンボル的なシャンバックに変わり洋装、リュック・バックを身に付ける人も大変増え、ジーンズや膝丈のスカート姿の女性も見られました。

 一方で、道端にはありとあらゆると言っても過言でない、食品から服飾、雑貨等など多種多様な店が依然として並んでいます。広い歩道が商品で埋められ、すれ違うのがやっとのところもあります。これらの店からは、威勢のいい声で客を呼び込み、客との駆け引きが真剣にされ、軽食や紅茶の店では、人々が憩い談笑をしています。ミャンマーの人々は総じて人懐こくおしゃべり好きなので、歩道にはざわめきが満ち、車道の轟きと相まって街はのんびりとした喧騒に包まれています。
 こういった街の店では、よく店の小さな子どもが遊んでいます。学校があるため、小学生位の学齢期の子どもは平日の昼間にはあまり見かけませんが、夕方にはお手伝いをしている姿があります。それでも、物乞いをしている学校に行かれないと思われる学齢期の子どもが4,5人、私がよくいく市場のあたりにも居ました。中学生位に見える子どもが昼間働いているのは、度々見かけます。地方から住み込みのハウスキーパーやベビーシッターとして出てくる子も多いそうです。私が出逢ったベビーシッターの15歳の女の子は、衣食住と月に3000Kyats(約350円)のお給料で働いていました。街の学校の前を下校の頃通りかかると清潔な制服を着、リュックサックを背負った子どもたちが目に付きます。迎えの保護者におやつを買ってもらい食べながら帰ってゆくこともしばしばなようですし、ショッピングセンターやゲームセンターなどで、おしゃれをして友達と遊ぶ10代の子達もよく目にしました。子どもたちだけを見ても、貧富の差が大きくなっていると感じます。
 日常生活事情としては、停電は私の住んでいたアパートではほぼ毎日ありました。ガスなどの配管はされていませんので、湯浴みに使う湯も料理のコンロ(プロパンガスを使用している家庭もあります。)も電気、炊飯器も電気、全てを電気に頼っている家庭も多いと思われます。水もアパート全体のタンクから自宅のタンクへ毎朝モーターで汲み上げるといった状態です。朝遅くなるとアパートのタンクに水がなく、2,3日続けば自宅のタンクが空になり、水が一日使えないという事にもなりかねません。たとえ水があったとしても、電気がもしなければ汲み上げる事は出来ません。この事に表されるように、インフラストラクチュ
アの面からはなかなか進展が見られないようです。
(Writing 関 淑乃)

投稿者 tsuka

ミャンマーで感じたこと

 ミャンマーへの支援が始まった4年前から何回かミャンマーに行かせていただく機会を得ました。ミャンマーの子どもたちと会えるのはとても楽しいことです。でも、ミャンマーとのおつきあいがこんなに継続するとは思っていませんでした。回を重ねる内に地域による違いやミャンマーが多民族国家であることもまだまだ私たちの知らないミャンマーの姿があることも見えてきました。行くたびの変化の大きさも感じます。
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 私たちが始めた文房具の支援というのはミャンマーの子どもたちにとっても微々たるものだろうと思いますが、子ども一人ひとりに確実に渡したいという願いは大事にしていきたいことだと思います。
 支援という点では私にできることはあまりありませんが、私が教師という立場からクラスの子どもたちにかいてもらった布絵を持って行き、教室に帰ってからはミャンマーで出会った子どもたちのことを話し伝えてきました。自分たちと違うところで勉強している友だちのことを知り考えていってほしいと思います。お互いがより理解し合えるようになるためにこれからお互いの子どもたちの思いをもう少しうまく伝え合うことができるようにしていければとも思っています。
今までにいくつかの学校を訪問させていただいて、先生の待遇も大きな問題だと思いました。先生をやっているだけでは生活ができないという状況で、子どもたちによい教育をするのはむずかしいことです。これは同じ教師としてなんとか改善していってほしいと願わずにはいられないことです。
 すべての子どもたちが少しでも気持ちよく学べるように、新たに発足したこの会にできることがあるのであれば、継続発展させていってほしいと願っています。私にできることは協力をしていきたいと思っています。
(writing 井上 久美子)

投稿者 tsuka