リレー寄稿 ・ メイン

2005年11月05日

想北京

 北京―7年ぶりに訪れたこの街は大陸特有の白っぽい埃とスモッグに霞み、不自然なまでに巨大な建築群が林立していた。宿を求めた北京一の大繁華街王府井は、相変わらず人でごったがえし、その隙間をぬうようにタクシーが疾走していく。
 北京のタクシーといえば、かつては「シャーリー」と「面包(ミエンパオ)」が普通だった。シャーリーは赤の小型シャレード、面包は黄色のハイゼットで、車体も内部も相当なシロモノだったが、便利で安かったので私もよく利用したものだ。

■変貌する大都会
 7年ぶりに北京空港に降りたってまず驚いたのが、街を行く車が随分洗練されたことだった。シャーリーも面包もほとんど見かけず、シトロエンやソナタの新車(?)が街を埋め尽くしている。タクシーもモダンなセダンタイプのものばかり。風景もなんとなく感じが変わった気がする・・。世界の大都市と言われながらも土臭く、アジア特有のごちゃごちゃ感と喧噪に包まれていた北京はなくなってしまったのか?3年後に迫ったオリンピックに向けて、街の雰囲気が着々と変わりつつある―。空港から市街地へと向かう高級タクシーの後部座席で、懐かしさと一抹の寂しさをぼんやりと感じていた。
☆ ☆ ☆
 7年前、大学で東洋史を専攻していた私は、どうにかして本当の中国を見てみたいという思いにいても立ってもいられなくなり、大学に1年間の休学届けを出して飛行機に乗ってしまった。中国は初めてではなかったが、観光で訪れるのではなく、地元の人と同じように買い、食べ、暮らすのだということに、異常なほど興奮していた。
 当時の北京は驚くべきスピードで経済発展を続けていた。ものによっては価格が半年で3倍以上にもなり、8年前の天安門事件も歴史に変わりつつあった。数年前まで存在していた「兌換券」は廃止され、外国人でも自由に人民元を使えるようになっていた。外国人が自由に旅行できない「非開放都市」はまだまだあったし、市内の観光でも中国人と外国人とでは入場料金に明確な差があったりしていたが、それでも外国や市場経済に対して心を開き始めた新しい中国の姿は刺激的だった。
私が勉学の場所として決めた北京語言文化大学は、外国語教育を専門的に行うエリート大学で、世界各国の留学生が集まっていた。アメリカやヨーロッパ、アフリカ大陸のほか、東南アジアや韓国、日本人がそれぞれのスタイルで学生生活を楽しみながら中国語を勉強しているのだった。あれほど外国人が集まる場所を北京ではほかに見たことがない。
 長期の留学生を別にすれば、中国人学生と外国人は宿舎から校舎まで明確に分けられていたのだが、その中でも、外国語を学ぶ中国人学生と「互相伴助(フーシャンバンジュー)」といって言葉を教えあいながら一緒に勉強するということがよく行われていた。私も蘇州出身の同い年の女子学生と一緒に勉強していたが、彼女たちの勉強に対する真摯な姿勢や、将来を見据えた自意識の持ち方にはいつも感銘を受けていた。両親への思い、両親に期待されている自分、大学生としての社会への責任など、おそらく日本の大学生とは比べものにならないくらいのプレッシャーやエリート意識を感じているのだろうと思う。

■生まれた場所で将来が決まる不平等
 実際、大学に入学できる子は、14億人ともいわれる中国国民のほんの一握りで、特に北京の大学はエリート校だ。ただ、中国人の将来は生まれた場所によって決まることが多く、農村に生まれれば一生農村から出られない人も多い。大学の入学試験にしても地域ごとに難易度が異なり、北京出身の学生は比較的簡単だ。卒業後の就職も北京出身者の方が有利という。
 街の雑踏の中で物乞いをしている子どもも多く、圧倒的な貧富の差や階級の差を見せつけられたのも北京だった。日本中のどこに住んでいても、外国に行きたいと思えば留学もできる。物価が高く、人生設計が立てづらいと思う「日本」でも、自分自身の力ではどうしようもない、例えば地域的な不平等などは感じることは稀だろう。中国という大国の闇の部分は、まだ相当な面積を占めている。

■反日感情のこと
 今回の中国行きにあたり、よく質問されたのが「反日感情は大丈夫なのか」というものだった。中国の反日運動については5・4運動から始まり、戦争が絡んだ複雑な歴史があったりして、とても一言でまとめられるものではない。
 現代社会を生きる庶民の中では、これまで幸か不幸か「反日」のような感情を感じたことはなかった。ただ、街の人たちの友好的な笑顔に甘えてはいけないと思う。高慢にならず、自虐的にもならず、両国の歴史を歴史として認識したうえで、同じアジア人としてどんな関係を築いていけるのか、本気で考えていかなければならないと思う。 
(中川久美子)

投稿者 tsuka

学校に行けないネパールの子どもたち

私の主人が信州大学に留学していますので私も3年前に来日しました。日本に来てからネパールの学校こと、子供たちとネパール文化などを知らせるために、いくつかの学校を訪問し交流をして来ました。また、機会があるごとにいろいろな所でも交流を重ねて来ました。今は長男アーナブの子育て中です。
私の国ネパールは日本とまったく違ってこのような豊かな国ではありません。小さくて貧しい国です。特に村の人々はお金がなくて生活が苦しいです。自分の畑がある人は少しだけ生活はしやすいけれど、自分の畑のない人はいくら働いてもお金は足りません。自分の子を学校に行かせない家族は大勢います。

ネパールでは10人のうち2人は学校に行っていません。学校へ行かない主な理由はお金が無いからです。学校は中学校(ネパールでは7クラス)まで学費はただです。教科書は出ますけれど試験費がかかります。試験費や制服、ノートなど買うお金が無い人は学校へは行くことが出来ないのです。もう一つの原因は、子供たちが大勢いて(1家族当りの子どもの数は全国平均で4.7人)皆を学校へ行かせる事のできる人は少ないのです。男の子だけ学校へ行かして女の子には家事を手伝わせたり、小さい子の面度をみさせたりしています。そうしないと両親は他の仕事ができないです。とても貧しい家の子どもは金持ちの家に手伝いに行かせたりします。貧しい家の子は学校へ行くことは夢のまた夢です。それから学校そのものが不足していることももっと重要な原因です。町には学校はありますが、村では学校は足りません。地元に小中学校があってもそれ以上の勉強は遠い所にある高校に行くことになります。だから小・中学校で勉強を辞める子がいっぱいいます。遠いところに行って勉強するにはお金と険しい道のりをどうやって学校まで行くかなどの問題があります。ですからどうしても勉強させたいという家族は少ないです。でもどうしても勉強をさせたい家族はとても頑張って子供を学校へ行かせます。それ以外に勉強が嫌いで家の仕事ばかりしていて学校へ行かない子もいます。
ネパールでよく見かけることは、子どもが町でゴミを集めている。停留場で小さい商売している。重労働の仕事している子どもたちです。この子たちは親がいないか、親が不自由で働けないので代わりに町に来た子供たちです。働かないと食べられないのでこのような仕事しています。勉強したくてもこの子たちには学校へ行くチャンスは与えられません。この子達を助けるいくつかの支援センターがありますがとても足りていません。私も将来はこのような子どもたちを助ける支援センターを開きたいとおもっています。
ネパールには日本を始め幾つかの国からの支援が入っています。しかし、ほとんどの支援は町中心です。わざわざ村に行って支援する団体はとても少ないです。どうして町中心の支援が多いかと言うと、支援をしたくても村への道はとても険しいので行くことが簡単ではありません。歩いて行くのも大変だし、送った文房具なども届くかどうか分からないのです。それに、最近は村方ではマオイスト(反政府団体)と政府の戦争が起こっているので支援する人の安全が心配な状態です。国内戦争は町より村の方が激しいです。
日本の皆様のご支援をもっと頂けるなら、この子供たちの人生は変わります。出来るだけ支援の輪を広げて頂き、この子たちを私たちと一緒に助けて頂きたいと思います。
(write バラール・マンジュ)

投稿者 tsuka | コメント (0)

2005年09月05日

ミャンマーへの思い

Myanmar project 2005 report-1 
 ミャンマーへいけるなんて夢にも思いませんでした。義父がビルマ、マンダレー戦争での体験談をよく話してくれました。激戦地であったことはもとより、高温、蚊、病気、食糧不足などで生き残ってきたのが不思議だといっていました。多くの戦友を失くしており思い出のマンダレーへ1度でいいから行きたいと、言っていた折り、タイ旅行1週間の券2枚が手に入りました。
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 義父にお前一緒に行ってくれないかと誘われ、ビルマの近くなら行きましょうと、タイへ連れていってもらったのが初めての海外旅行でした。その時はビルマからミャンマーへの国名変更など政情不安のため、ミャンマーへは入国が出来なかったことを記憶しています。バンコクまでの旅でしたが義父は大いに喜びました。その義父も84歳で他界しマンダレーの記憶も薄れた頃、グローバル教育支援センターにミャンマープロジェクトが出来、教育支援が始まりました。
 2005年7月末の支援参加で5回ミャンマーへ行くことになります。支援に行くたび多くを感じるのですが、ヤンゴンへ着くと町並みがきれいになっているように感じます。またゴミも少なくなっています。写真を撮る機会が多いのですが、この頃カメラを向けると拒否する人が出てきました。大どおり、裏どおり、路地、いたるところがマーケットでありレストランであったりします。あの陽気さは何処から出てきているのか不思議でなりません。それに子どもたちの澄んだ目の輝きです。また子どもの物売りの少ないことです。軍事政権下の人々とは思われません。
 僧院学校訪問が多くなりますが、この子らを見ていると自分の子どもの頃が懐かしく思い出せます。衛生状況、教育環境、食料状況全く私の子どもの頃と同じです。日本の人たちの善意の学用品、お金、誠意をこの子らに少しでも役立っていただければ、またマンダレーを始めとする戦争で多くのビルマ(ミャンマー)の国民に迷惑をかけています。少しでも償うことが出来ればと毎年参加させてもらっています。義父も「治三、ありがとう」と喜んでいてくれると思います。
(writing 山田 治三)

投稿者 tsuka

ほんのちょっと前まで(?)アジアで

 どーも初めまして。私、すがぬまは今でこそ長野県人ですが、この10年間のうち、6年間はアジアで国際協力に携ってきました。
で、今までの活動を・・・というお題目で何か原稿を・・・と言われたのですが、まずはそこに行き着くまでの話から先にしたいと思います。
 あれはまだバカな酔っ払い(これは今でもそうですが)の学生のとき、少しは本でも読まなきゃいかんな・・・と思って、何気なく買った本の中に「肉を1kg作るのに、穀物20kgを必要とし、その分を貧しい人にまわせば、飢餓がなくなる」という一文を読み、「あれ?何でこんな簡単なことに気付かなかったんだろう。先進国は途上国を踏み台にして成り立っているんだ」と感じ、それがアジアに目を向ける一歩でした。
しかし、そんなこんなしているうちに就職してしまったのですが、このときの想いがあって、10年前に前の会社を休職して、青年海外協力隊でバングラディシュに行きました。

 バングラでは組合を通して、村の開発を行う・・・とけっこう漠然とした職種だったのですが、主に識字教育をしていました。識字教育とは字の読み書きができない人たちに対して、文字を教えるというものです。よく専門家が書く本には「字が読めないと条件の悪い契約書に印を押してしまう」とか「農薬のラベルが貼ってあっても、それが読めないので、子どもにそれを飲ませてしまう」などの理由で識字教育の必要性が説かれていましたが、私はそんなもんでなく、字を読み書きできることの喜びとかではないのかな・・・と思います。これは多分、今の日本人には分かりにくいことかもしれませんが、実際、村のおばちゃんの「遠くに出稼ぎに行っている旦那に手紙でやり取りできて、あたしゃ、嬉しいよ」という言葉を聞いて、バングラに来て、この仕事をして良かった・・・と感動してしまいました。
 と、協力隊は2年の任期でしたが、この業界が面白かったために、今度は前の会社を辞めて、NGOに入りラオスに行きました。
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 当初はラオスには図書が少ないので、学校に本を配布する・・・という極めて、私にとってはつまらん仕事でしたが、これとは別に首都のヴィエンチャンからおんぼろバスで20時間以上かかるセコン県というところで、少数民族の民話を収集し、それを紙芝居にして、小学校に配布するというものがあって、それにのめり込みました。ここは首都の普通のラオ人でも行きたがらないような電気のない貧しい地域なのですが、滅多に見られない水牛の生贄のような少数民族の文化とかも見て、楽しかったです。
 また、ただ単に紙芝居を配布しただけでなく、学校の先生方が自ら紙芝居を作るようにしてゆくように努め、数人でしたけど、面白い紙芝居を作った先生方に出会え、セコン県で仕事して良かった・・・とこれまた感動してしまいました。
 今は愛娘もいることで、もう無謀なこと(?)もできんな・・・と思いますが、それでもアジアとは繋がりを持ちたいと思いますので、これからもよろしくお願いします。
(writing 菅沼 裕行)

投稿者 tsuka

2005年05月05日

ミャンマーで感じたこと

 ミャンマーへの支援が始まった4年前から何回かミャンマーに行かせていただく機会を得ました。ミャンマーの子どもたちと会えるのはとても楽しいことです。でも、ミャンマーとのおつきあいがこんなに継続するとは思っていませんでした。回を重ねる内に地域による違いやミャンマーが多民族国家であることもまだまだ私たちの知らないミャンマーの姿があることも見えてきました。行くたびの変化の大きさも感じます。
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 私たちが始めた文房具の支援というのはミャンマーの子どもたちにとっても微々たるものだろうと思いますが、子ども一人ひとりに確実に渡したいという願いは大事にしていきたいことだと思います。
 支援という点では私にできることはあまりありませんが、私が教師という立場からクラスの子どもたちにかいてもらった布絵を持って行き、教室に帰ってからはミャンマーで出会った子どもたちのことを話し伝えてきました。自分たちと違うところで勉強している友だちのことを知り考えていってほしいと思います。お互いがより理解し合えるようになるためにこれからお互いの子どもたちの思いをもう少しうまく伝え合うことができるようにしていければとも思っています。
今までにいくつかの学校を訪問させていただいて、先生の待遇も大きな問題だと思いました。先生をやっているだけでは生活ができないという状況で、子どもたちによい教育をするのはむずかしいことです。これは同じ教師としてなんとか改善していってほしいと願わずにはいられないことです。
 すべての子どもたちが少しでも気持ちよく学べるように、新たに発足したこの会にできることがあるのであれば、継続発展させていってほしいと願っています。私にできることは協力をしていきたいと思っています。
(writing 井上 久美子)

投稿者 tsuka