現地レポート ・ メイン

2006年05月05日

夢想的北京

 おそらく、現代の日本ではこれほど短期間のうちにこんなにも街のようすが変わってしまうことなどないのではないか。
 マイレージをためて頂戴したチケットで飛行機に乗り、再び北京に降り立ったのは2月10日。春節が終わり、明日は元肖節(ユエンシャオジエ)という、寒い日だった。
 8年前に短期留学生として青春のひとこまを過ごした、懐かしい北京語言文化大学。そのほとんど校内にあるともいえるこぎれいなホテルに宿を求めた。校内を歩き、きらきらしていたあの頃の思い出に浸りたいと思った。
黄砂とスモッグでかすんだ街と極端に乾燥した埃っぽい空気。さんざし飴の鮮やかな赤。立ちのぼる温かい湯気。人間の生きる営みを感じさせてくれる街。大好きな北京は何も変わらずに私を待っていてくれるはずだった。でも。

 オリンピックが開かれる2008年を前に、北京は急激にその姿を変えようとしていた。想像を超える巨大なホテルが林立する王府井だけでなく、郊外の大学や市民が暮らす団地も古いレンガ造りから、無機質なコンクリートやしっくいのハコに変わりつつあったのには少なからずがっかりした。懐かしの大学校内を歩いても当時の面影を感じることがず・・・。寮から校舎まで、図書館から食堂まで、歩き慣れたはずの道は・・。呆然として必死で記憶をたどる。
 もともと共産主義国の中国では、区画整理や団地整備の折に住民説明などしないし、整理のやり方も非常に豪快かつ大雑把だ。あっという間にひとつの町並みがなくなってしまうことなど以前もあった。それにしても。
 在学していた頃、学校から歩いて5分ほどのところに大きな自由市場があった。留学生が足繁く通ったそこでは、食べ物はもちろん、衣服や日用品、家具までなんだってそろった。混沌とした魅力的な場所だった。焼き栗を頬張りながら、どこまでも続く狭い路地をあてもなく探検するのが楽しくて仕方なかった。8年後の今、その場所にあるのは大きな新しいアパート群だ。かつての賑わいも、たくさんの人やものもぜんぶ、跡形もなく消えてしまった。
 高度成長を経験していない私は急激に変わりつつある街の姿になじめない。思い出がなくなっていく寂しさばかりを感じ、大きいだけのハコモノに美しい未来を見ることができない。旅人の無責任な感傷だとわかってはいるが、気持ちを整理できないまま帰国の途についた。
(中川 久美子)

投稿者 tsuka

2006年02月05日

ネパール訪問記  ~10年目のネパール~

グローバル教育支援センターのメンバーとして山田治三さんが昨年11月にネパールを訪問いたしました。
--------------------------------------------

 待ちに待ったネパール訪問は11月1日から11月6日の日程となりました。今までは早朝の長野出発、目が覚めないうちのフライト、もうバンコクか、ということが多かったのですが、今回は第1日目、関空のホテル、帰国の6日は明るいうちの自宅到着の日程でした。
 早いもので、紆余曲折はありましたが支援者との約束の教育支援が10年になりました。ネパール訪問はここ数年、訪問計画を立てるのですが、ネパール国の政情不安などで子供たちへの訪問はとぎれとぎれとなり、私は2年ほどご無沙汰してしまいました。子供たちは大きくなっているだろうか、カトマンドゥの町はどうだろうかと思いがつのり、わくわくの出発でした。カトマンドゥへは夜の到着でしたので、のんびりしていましたが、着くやいなや慌ただしく翌日の予定確認、連絡等で12時を過ぎてしまいました。今回初めて同行する支援者の要望もあり宿泊先は「アンナプルナホテル」をとりました。

 訪問期間中、ちょうどネパールでは「ティハール」といわれる女神ラクシユミーを家に迎え、富と反映を祈る光の祭りとして華やかな収穫祭が行われていました。この祭りでは夜に親戚が集まり花や果物を捧げ、長寿や無事を祈ります。予定ではバスネットさんの自宅訪問があります。バスネットさんは以前健康診断など医療について支援をした折りに、ごやっかいになり5年前にもご自宅を訪問させていただきました。その時は案内された2階は薄暗く、あいにくその日、バスネット先生の学校で学生デモがありバネットさんの自宅で長時間お待ちしたことを記憶しています。
 夕方、タクシーでバスネット宅へ。家々の入口には独特なキャンドルが幻想的でした。2階へ上がって、びっくりしてしまいました。部屋は5年前の面影はなく、模様替えがされ、中は整然としており、果物が何種類も供えてありました。料理も鶏肉、豚肉、を使ったお祭り独特の料理が盛り沢山あり、食べきれませんでした。食事の順番があるようで、我々の食事中に子供たちが出たり入ったり日本の子供と同じです。以前のように医療支援が出来れば良いなあなどと、話が弾みましたが、家族団らんの祭りの日、長居は無用と名残惜しみながらお別れをしました。
 「ティハール」の日だと言うことからすると、カガチ村からのチヤクラマン先生、シュデニ村のシタラン・ギミレ先生が何キロメートルと遠い山からホテルまでおいでいただいたこと、支援している子供たちの家庭訪問、C,M,Sのレグミ校長はじめ関係者の面談、民族舞踊を交えての歓迎会、悪いことをしてしまったと思います。楽しみの祭りの日なのにその準備に追われてしまったことは悔やまれました。
 マンジュ、アラテイ、など子供たちと再会し、面談をすると、健康で健やかに育っている子供、我々の支援は小さいかもしれないがネパールを担う立派な若者に育っていることを実感しました。短期間の訪問でしたが実りが多い今回でした。来年の訪問を約束しネパールを後にしました。
(山田 治三)

投稿者 tsuka

2005年11月05日

中華人民共和国訪問報告

 成田空港から北京空港まで2134km。今年2月に続き10月5日~9日の間中国を訪問してきました。今回も訪問したのは中国民主促進会北京市委員会で松川理事と共にお話を伺ってきました。 訪問したのは中国民主促進会北京市委員会、民主促進会とは中国政府が認めている8つ政治団体の1つで、日本の国会で言えば野党にあたる団体と考えて頂ければと思います。大学や高校の優秀な先生方によって組織されています。中国の小中学校の先生方の80%は高卒の学歴で、特に田舎の先生ほどこの傾向が大きいとお聞きました。民主促進会の主な任務は政府や行政などに教育に関する提言を行っている他、経済的に貧しい地区に出かけ、先生方のレベルアップや子供たちへの支援活動を行っています。子供たちへの支援は、ここ数年は香港の企業や教師集団と協力しておこなうことが多くなっているようです。

 中国の学校制度は小学校6年、中学校3年、高校3年、大学4年であり、小中学校は義務教育で日本と同じです。新学期は8月か9月から始まります。学校は国の教育部、省の教育庁、各市の教育局で管理されています。教員資格は正規と臨時の2種類があり、給料は地区の行政から支給され、地区の経済力で変わる為、都市部に勤務を望む先生が多いといいます。経済力が弱く教育支援を必要としている地域は、東北エリア、西北エリア、西南チベットエリアで、北京市委員会は陝西省、貴州省、雲南省の3地区に力を入れて支援をしています。現地の学校の状況ですが、先生が足りておらず、山間地域では父兄が資金を出し合い先生を確保している状況で、校舎は傷みが酷くぼろぼろのところが多く、あればまだましで、洞窟や青空で授業を行っている所もあるようです。机や椅子も不足していて、図書館もなく、本も置いてない状況だそうです。国も10年前から格差是正のプロジェクトを組んで取り組みを始めていますが、徐々に改善が見られるもののまだまだ時間が必要と予測されています。また、これらの地域の子供たちの20%は就学していません。
 障害者教育は弱智、聾、盲学校などは各地に設置されており専門の教育がされているようですが、多動症の子供たちには特別な教室は設けておらず他の子供たちと一緒に学ばせています。障害者の就職は国が責任を持って斡旋しており、給料は健常者のおよそ半分だという事です。
 今後の交流支援は北京市内と支援地域内での交流は民主促進会北京市委員会が仲に入るので問題なくできるそうで、まず現状を視察してから「絵の交換や文通などをしていけるでしょう。また、双方の教師の交流も良いものにしていきましょう」とアドバイスを頂きました。
 日本人の中国観光客はここ10年間平均で年間44万人~50万人ですが春先の事件で日本からの観光客は60%も減少しているそうです。これまでの両国の関係は長い歴史の中で友好関係も築かれてきましたが、旧日本軍の侵略で両国人民にとって不幸な時代もありました。今回、日中戦争のきっかけとなった1937年7月7日の盧溝橋事件の現場を訪ね、中国人民抗日戦争記念館を見学して来ました。館内はとても広く、旧日本軍の侵略と中国人民の戦いの歴史が展示されていました。近年の中国人の愛国心教育の場にもなっているようですが、旧日本軍の残虐振りに目を覆いたくなる展示もあり、人が人を殺す戦争を再びしてはならないと強く感じました。
 今後の交流支援活動については政治的問題も多く存在しますが、少しずつ始めていければと思います。先日、小泉首相が靖国神社を参拝しました。賛否両論がありますが、私たちの気持ちや活動に水をさす行為であると思います。「強大な地域パワーの登場を防ぎたい」とするアメリカの思惑が日中間のもめごとを歓迎しているのではないかと考えてしまいます。いずれにせよアジア各国との友好関係を築いていくことがアジアの平和安定に貢献することに繁がります。出来ることから中国の子どもたちとの交流支援活動を始めていければと考えています。
(write青木 正彦)

投稿者 tsuka | コメント (0)

2005年09月05日

ミャンマー訪問報告(7月30日~8月7日)

Myanmar project 2005 report-2
 恒例の夏のミャンマー訪問は長野市から3名、松本市、駒ヶ根市からそれぞれ1名の団で、7月30日から8月7日まで訪問してきました。今回は残念ながら予定をいていた公設学校3校への訪問は教育省の許可が下りず実現できませんでした。理由は爆弾騒ぎなどのある中で、大切な子どもたちに外国人を合わせる訳にはいかないとする軍部の意向があったからだそうですが、教育省で会見したウ・ エィ ・ミィン(U Aye Myint)さんは「次回は許可できるでしょう」と約束をしてくれました。
 訪問できた僧院学校の報告を致します。どちらの学校の子どもたちも大歓迎してくれました。
s-2005.08.05 (15).jpg

 ニャウンドウパラヒタ僧院学校(児童134名、教師6名)は今年から中学1年生の教室が増設されました。退職された男性教師の代わりを含め2人の女性教師が着任していました。今回の寄付は文房具をはじめ日本の子どもたちから送られた布絵や絵画などの他、長野市の裂織の会制作のシャンバック26個などを送ることができ大変喜ばれました。 キャンギン僧院学校(児童115名、教師4名)はこれまでグローバル教育支援センター時代にもなんども訪問した学校です。これまでに机の寄贈や敷地内の整備も行ってきました。今回訪問してみると、新たに屋根付の渡り廊下が造られており、激しく降る雨のなかでも濡れることなく教室に移動することができるようになっていました。文房具のほか布絵などを寄贈しました。

【ご協力頂いただいた学校団体】
長野市朝陽・吉田・三輪小学校、信濃町野尻湖小学校、長野市信大附属長野・東北中学校、ガールスカウト長野県第4団、広島県南方小学校、高知県伊野小学校、グローバル教育支援センター、裂織の会、NAGANOケナフの会
s-2005.08.01 (20).jpg
 私たちと同時期にミャンマーを視察していたWFP(世界食糧計画)のジェイムス・モリス事務局長が8月5日、ミャンマー視察を終えバンコクで記者会見を行い「ミャンマーの子供たちの100人の内40人の栄養が足りていない。地方の子どもたちは80㌫が栄養不足だ」と語り、さらに、この状況が続くと1.学校への就学が続けられない。2.体力が落ちており病気にかかり安い。3.子供たちの死亡率が高くなる。非常に深刻な状況だと強く警告しています。
 今回、叶わなかった公設学校への訪問はミャンマー教育省と連絡を取りながら、なるべく早い時期に実現させたいと考えています。首都ヤンゴンで比較的貧しい人々が暮らすタケダ地区では34番小学校の他に10番小学校にも井戸がないことが分かりました。このようにミャンマーの子供たちは貧しく不足している物が沢山あります。しかし、仏教国で礼節を大切にする国情があります。かつての日本も礼節を大切にする国でした。ミャンマーの子どもたちが尊敬しているものは、お釈迦様、お釈迦様の教え、お坊さん、親、先生です。このことからも分かるように、家庭文化はとても高く羨ましいほどです。それに比べ日本の子供たちはミャンマーの子どもたちと違いお金や物が豊富でも幸せだとは思っていない。夢がなく将来にも不安を持ちながら生きている。とても心配なことだと思います。この責任は子供たちにあるのではなく私たち大人や社会にあると考えます。今回も「真の幸せ」とは何かを考えさせられる訪問になりました。子どもたちとの交流を通じて自分の人生を見直すこと、生きるということは回りの人々との関わりの中で生かされていること、それを実感できました。「命を大切にすること」「ひとを思いやる心を大切に生きていくこと」が今の日本には必要ではないかと強く感じました。
 最後に今回の支援にご協力を頂きました皆さん、ありがとうございました。
(writing 青木 正彦)

投稿者 tsuka

マレーシアの子ども事情

 私は高知ケナフ普及会の宮地 亀好です。2002年にはミャンマーにご一緒させて戴き、今でも、その時の感動が残っています。
 今回、急遽、マレーシアで開催されるケナフセミナーに参加する事になり4泊5日という短期間でセミナー・ケナフボード工場・栽培地・研究所を廻ってきました。
 マレーシアは国土の面積は日本の90%で人口は約2800万人13州からなり、国教はイスラム教である。
 国民の所得は東南アジアではシンガポール、ブルネイに次いで3番目に高く、約4500ドル(約48万)である。
 スズは世界一の生産国であり、海底油田、木材(まだ国土の70%が原生の熱帯雨林)電気製品や木材加工品、それにパーム椰子やゴムの大きなプランテーションもあり、発展している国である。
 クアラルンプールの交通渋滞緩和・公官庁の立て替えや発展途上国の追い上げなどから空港近くに、新都市移転計画・IT振興地区をもうけて、積極的に投資している。
 学校は田舎まで新しい建物が建設され、小学校は20人学級、中等学校は15人学級が定着しています。

 IT産業振興には、小学校から取り組み、マルチメジア・スーパー・コリドー計画も進められているし、新都市移転計画も計画の半分の年数でほぼ70%完成し、国会や官公庁の移転は終了し、安価で快適な住宅も次々と建設されていました。
 空港は黒川紀章さんの設計で東洋一と言われるくらい立派で、クアラルンプールまでは約75kmも離れていますが、ノンストップの特急列車28分で結ばれています。
 人種はマレー系62.3%中国系26.7%インド系7.6%であるが、教育に於いてはブリプトラ 政策によってマレー系の国民が優遇されています。
 子供の数は一家族平均は4人と多く、私が聞いた家族はほとんど4人以上でした。
s-miyaji.jpg
 学校はプレスクールと呼ばれる4才からの就学前教育からスタートし、以降、小学校6年、下級中学校3年、高等中学校2年、大学予備課程2年、大学3年(医学部は5年)のいわゆる「6-3-2-2-3制」から成っている。
 就学率は1995年の数字で小学校96.7%、下級中学校82.4%、上級中学校55.8%大学予備課程23.2%、大学3.7%と成っていました。今では小学校への就学率はほぼ100%近いと思われます。教員数は生徒に対して多く、全校を通じて教員1人当たり生徒15名以下と充実していた。
 中等・大学は技術系の専門学校も多く、大学の一部は大手企業が経営し、有用な人材養成もしていました。
 教育政策の基本に民族間の貧富格差を是正し、社会構造の再編を促す事に置いており、小学校6年で試験を行い、マレー系のみの児童を全体(約20万人)の1.2%に当たる約24、000人が全寮制の英才教育を受け、狭い大学に進学している。
 書店などは子どもの教材も多く、特に算数の問題には決められた答えを書くだけでなく、自己発想力を養う内容が多く見られました。
また、自己の意見を大勢の前ではっきり伝えるという内容の授業もされているとの事であった。
 マレーシアは車社会、ほとんど横断歩道はなく、危ないし、ガソリンは自国で生産でき、かつ税金もかからないため、(1リットルが40円と安く)都会の児童はほとんど、送迎は父兄が車で、田舎では自転車通学で有った。
 小・中学校は義務教育では無いが、高学歴は高所得に結びつくため、親は積極的に学校に行かしている。田舎の学校の話では小学校でも1人当たり週1リンギット(約29円)が必要とのことで、子どもの多い家庭は負担が多いとの事であった。(ちなみに先生の初任給は約8、000リンギット・・約23,200円)
 高等中学校の就学率が低いのは、家庭を助けるために就職する事によると思われます。その時男子生徒が早くから、仕事に就くため、大学進学率などは女性が65%以上を占めている。
 私が訪問したスハン村はタイ国境からの集団移住で出来た村で1所帯2ヘクタールを国が無償で与え、100所帯が稲作を営んでいました。稲作は1年に雨期の1回しか蒔けないため、裏作にケナフの栽培をし、近くのクアンタンミエコ松下のボード工場に販売するために試験栽培をしていました。
 この部落にも、立派な小学校が建てられ、朝8時から午後13時までの授業に全員が登校していました。
 また、就学前から国の教えとしての「道徳教育」が国の連帯感・自己の自己規律の基本にあり、日本は同じようにする事は出来ないものの、自己規律を高める事や団体生活を営む時の協調性などを高める教育について、学ぶべき点が多くあるように思われました。
 子ども達の教育・福祉の向上は地域の経済基盤の充実が不可欠である。今回、訪問したマレーシア・スハン村の振興には、その地域に合ったケナフの栽培技術の確立が不可欠である。環境保全、農業と工業の連携、循環型社会の構築などこの部落だけでも200ヘクタールあるケナフ栽培は。地域振興モデル地区としてもぜひ成功して欲しいと思っています。幸い、アジア子ども交流支援センターの会員はケナフにも興味のある方が多いので、他の国に行くときにも、この村を訪問して文化交流が出来ればと思う旅でした。
6月9日記(writing 宮地 亀好)

投稿者 tsuka | コメント (0)

中国訪問記

今回の中国訪問は、JICAが主催する教師海外研修参加によるものでした。JICAは、海外青年協力隊やシニアボランティアの派遣を通して、国際協力を実施している独立行政法人です。ですから、出発前の事前研修時には、国際協力案件のPR事業ではないかという穿った見方をしていたいました。しかし、実際に訪問し、現地で働く協力隊員、専門家(各種技術者)、そして、現地の人々(学生さんたち)との出会いを通して、改めて「援助」や「支援」をすることとは何かということを考えさせられました。それは、 物的支援や技術移転だけでない、人材育成、次世代につながる支援を行うということ、将来的に経済や政治状況に左右されない友好関係を築くには自分に何ができるのか。そんなことを漠然と考えました。

 内蒙古大学では、日本語科の学生さんたちによるスピーチと、参加教員による日本の学校紹介を行いました。中国の大学入試は、共通試験の得点により大学が決まりますので、内蒙古大学の学生も中国全土から集まっています。それでも蒙古族の学生が多いので、彼らは、共通語(北京語)とモンゴル語の二つの言葉のハンディを乗り越えなければなりません。その上で、日本語を身につけ、自分の夢の夢に向かって勉学に励んでいるのです。彼らの生活は、一日のほとんどを学習に費やし、文系も理系も関係なくアルバイトをする間もなく学ぶことに力を入れています。なるほど、日本語の上達も早いわけです。
このような学生さんたちは国内では、比較的恵まれた存在と言えますが、とても慎ましやかな暮らしでした。3元(1元=14円)のお昼を学食ですませ、4人部屋の寮生活を送っていました。
 お昼の時には、彼らと歴史問題や反日デモについて話すことができました。ある学生さんは、「これからの両国のことを考えるために、お互いの否は認めなくてはならない、そのために、日本語が役立てたら」という話をされていました。
s-t-7.jpg

 現在の中国には、日本が歩んできた女工哀史の世界から・高度経済成長・バブル期に至まですべてが同時に進行しています。その善し悪しを述べることは私にはできませんが、貧富の差が顕著になってきているのも事実です。教育に限っていえば、経済上の問題から進学をあきらめざるおえない状況も生まれています。政府は、多民族融合、地方の底上げと優秀な人材発掘のため様々な施策をとっていますが、国内すべてに同じ教育条件が整っているわけではありません。また、政府自体が、中国国内の最貧地について公開しないという難しさもあります。
私たちがこれから、どんな支援や友好関係を築いてゆくか、さらなる情報収集と、見通しが必要になると思います。
(writing 湯本 英晴)

投稿者 tsuka | コメント (1)

2005年05月05日

ミャンマーの生活と教育事情

 2004年10月から2005年1月にかけての3ヶ月間ヤンゴンに滞在しましたので、その間に感じた街や人々の様子について触れてゆきたいと思います。
 ヤンゴンでは、ここ数年スーパーマーケットやショッピングセンターが増え、どんどん都市化しているように感じます。インターネットカフェやモダンなレストラン、カフェが街のあちこちに見られるようになりました。少しずつ道路の整備もなされ、ごみを集め清掃するヤンゴン市の制服を着た職員の姿をダウンタウンの中であれば、一日中目にします。ヤンゴンは、華やかで現代的な首都としての顔を急速に整えようとしているかのようです。若者の間では髪を染める事が流行り、民族衣装であるロンジーやシンボル的なシャンバックに変わり洋装、リュック・バックを身に付ける人も大変増え、ジーンズや膝丈のスカート姿の女性も見られました。

 一方で、道端にはありとあらゆると言っても過言でない、食品から服飾、雑貨等など多種多様な店が依然として並んでいます。広い歩道が商品で埋められ、すれ違うのがやっとのところもあります。これらの店からは、威勢のいい声で客を呼び込み、客との駆け引きが真剣にされ、軽食や紅茶の店では、人々が憩い談笑をしています。ミャンマーの人々は総じて人懐こくおしゃべり好きなので、歩道にはざわめきが満ち、車道の轟きと相まって街はのんびりとした喧騒に包まれています。
 こういった街の店では、よく店の小さな子どもが遊んでいます。学校があるため、小学生位の学齢期の子どもは平日の昼間にはあまり見かけませんが、夕方にはお手伝いをしている姿があります。それでも、物乞いをしている学校に行かれないと思われる学齢期の子どもが4,5人、私がよくいく市場のあたりにも居ました。中学生位に見える子どもが昼間働いているのは、度々見かけます。地方から住み込みのハウスキーパーやベビーシッターとして出てくる子も多いそうです。私が出逢ったベビーシッターの15歳の女の子は、衣食住と月に3000Kyats(約350円)のお給料で働いていました。街の学校の前を下校の頃通りかかると清潔な制服を着、リュックサックを背負った子どもたちが目に付きます。迎えの保護者におやつを買ってもらい食べながら帰ってゆくこともしばしばなようですし、ショッピングセンターやゲームセンターなどで、おしゃれをして友達と遊ぶ10代の子達もよく目にしました。子どもたちだけを見ても、貧富の差が大きくなっていると感じます。
 日常生活事情としては、停電は私の住んでいたアパートではほぼ毎日ありました。ガスなどの配管はされていませんので、湯浴みに使う湯も料理のコンロ(プロパンガスを使用している家庭もあります。)も電気、炊飯器も電気、全てを電気に頼っている家庭も多いと思われます。水もアパート全体のタンクから自宅のタンクへ毎朝モーターで汲み上げるといった状態です。朝遅くなるとアパートのタンクに水がなく、2,3日続けば自宅のタンクが空になり、水が一日使えないという事にもなりかねません。たとえ水があったとしても、電気がもしなければ汲み上げる事は出来ません。この事に表されるように、インフラストラクチュ
アの面からはなかなか進展が見られないようです。
(Writing 関 淑乃)

投稿者 tsuka